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 箴言の森
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【至極──この世が天国】

☆ 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。
              (正岡子規『病状六尺』)

☆ 幸福には、明日という日はありません。昨日という日もありません。幸福は、過去のことを記憶してもいなければ、未来のことも考えません。幸福には、現在があるだけです。(ツルゲーネフ『アーシャ』)

☆ いまという再び帰ることのない時間は、明日のためにあるのではありません。今日という日は、明日やあさってや来年への途中ではありません。いまが豊かでないのに、明日が豊かなはずがありません。
   (野間宏伝えるアフリアの民の言葉)

☆ 無為とは、何もしないことじゃなくて、していることだけを歓ぶこと。結果を恐れず、先のことへの思いを捨てて、今の歓びのなかにいることさ。それがあのタオの静かな歓びにつながる。
 …… 本当にタオとつながるひとは、ゆったりとした真実の働きのなかにいる。うわべの流れを見ずにすごして平気なんだ。結果が自然にでてくるのを待つひとだから、自分から目指したり、とったりはしない。そんなことをいうと、非現実的だとおっしゃるかもしれないが、そうじゃないんだ。むしろ、結果や目的を考えないで生きていること〔無為〕が、いちばん現実的なんだよ。だって、今ここ〔而今〕に働くエネルギー(天地自然の息吹〕だけが現実なんだからね。
    (『老子』三七〜三九章)

☆ Every cloud has a silver laining.
 どんな暗雲も銀の裏地をもっている。(英国諺)

☆  悟りとういことはござらぬ。そなたの心が本来仏でござるに、仏心に何の不足があってか又外に悟りを求めさっしゃる。(盤珪禅師)

☆ 善悪の境界〔この世この生〕、皆浄土なり。外に求べからず、厭べからず。よろず生としいけるもの、山川草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏〔佳音=天上の音楽=無縁世界の発現〕ならずとふことなし。(一遍『播磨語録』消息文)

☆ 別離がこんなに苦しいのは、逢うことができた歓びのためなのです。(仏陀「愛別離苦」私訳)

☆ 貧賤憂戚は、もって汝を成るに玉にす。

☆ 艱難汝を玉にす。『碧巌録』

☆ わたしたちの生の一歩一歩が目的の砂を踏み、踏みはずし、そこに照らしてなにをしたかということによって、人生を考えたり価値や意味を判断したりしている。……わたしたちは、目的の砂地から足を離すことができず、あるいはその砂に埋まるようにして生きていて、生きていること自体の価値や意味を見失う。何をどうやって生きるかについてはよく考えるが、生きていること自体へ目をやることが少ない。
     (太田省吾『舞台の水』一三二頁)

☆ 而今の山水は、古仏の現道場なり。ともに法位に住して究尽の功徳を成せり。山の諸徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より通達す。順風の妙巧、さだめて山より透脱するなり。(道元『正法眼蔵』第一四巻「山水経」)
〔いまぼくたちが目の前に見ている天地自然の光景には、永遠の真理がすでに実現しています。山も水がその所を得て寄り添い、自然がそのようなすばらしい調和のなかにあるのは、それはじつは永遠とも言える宇宙の生命が天地全体に息吹いていることのたまものです。この天地自然のめぐみは、果てもなく広く大きいです。森羅万象がこんなに美しく気高いことも、ぼくたちの心が風のように自由になることができるのも、すべてはこうした天地自然の功徳によってもたらされるのです。拙訳〕

☆ 「桜の花びらがひらひらと散る。散ってゆく花びらが地面に触れんとするとき、現実にその音は耳には聞こえないかもしれない。しかし、たしかに音を知る。花びらでもなく、音でもなく、直観において感得したこの知の世界。それを描きたかった。」「散る花びらが地に触れるその瞬間の空間の充実、ついには花びらでもなければ音でもない、宇宙の核と相通じるような心境」
  (徳岡神泉)

☆ 本当の現実とは、私たちが、いつか、この地上から居なくなるというこの事実のもつ感触なのだ──そう思いました。そうしましたら、私は、いまここにこうして生きていることが、たまらない生命の高まりなのだと思えてきて……(辻邦生『樹の声 海の声』第四巻、二八二頁)

☆ 究極の彼岸は、ぼくたちにもっとも身近な此岸、もっとも内在的な近さ〔而今〕である。しかしこの近さは、そのつど生きられている瞬間に生動しておりながら、同時に、まだそれとして止められて至福とされていないし、掘り起こされて黄金に精錬されてもいない。
 (E・ブロッホ『希望の原理』一五二四頁)

☆ (エミリー) 生きている人たちって、よくわかっていないんでしょう──ね?
  (ギブス)  そうよ──たぶんね。
  (エミリー) みんな、鍵のかかった小さな箱に閉じこめられている、みたいね。
        (S・ワイルダー:戯曲「わが町」) 

☆ 死の側より照明(て)らせばことにかがやきて 
ひたくれないの生ならずもや
      (齋藤史『ひたくれなゐ』)

☆ ご自分が、旅から帰ってくると仮定していただきたい。町角を曲がり、近づき、家に到着する、その時、あなたの胸は高鳴りはしないか? この自然ながら変哲もない悦び。よく知っていて親密であったすべてのもの──たとえばベッドや食卓──に感じられるあの焦がれるような思い。
 そのうえで、人生がうちつづく旅だと、どの宿屋も自分の家であり、どの戸口にもあなたの子供たちが待っていると、どのベッドにもあなたの伴侶が待っていると仮定していただきたい。詩人とはそういうものなのです。(ミュッセ『散文作品集』)
 
☆ 日月は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也……日々に旅にして、旅を栖とす。(芭蕉『奥の細道』)
☆ ものの見えたるひかり、いまだ消えざるうちに、言い止むべし(芭蕉『三冊子』)

☆ すべて見えるものは、見えないものに触っている。
  聞こえるものは、聞こえないものに触れている。
  おそらく、考えられるものは、考えられないものに
  触っているだろう。(ノヴァーリス『青い花』)





【今日という一日】

☆ 佳き金言・警句はどの時代にも食事と同じように滋養を与え、何世紀にもわたって生きつづけるものだ。(ニーチェ)

☆ とにかくも、毎日は新しい日なんだ(ヘミングウェイ『老人と海』)

☆ 今日という一日は、明日という日の二日分の値打ちを持っている。(ベンジャミン・フランクリン)

☆ 前後を切断せよ、
妄りに過去に執着する勿れ、
徒らに将来に望みを属する勿れ、
満身の力をこめて現在に働け(夏目漱石『倫敦消息』)

☆ 時間なんてものは存在しないのです。現に存在しているのは、瞬間だけです。
だから現在のこの瞬間に注意深くありなさい。そしてただ現在の中でのみ、わたしたちは永遠を知るのです。
愛──それは神的ななにかの顕現であり、その本性にとって時間なんてありません。それゆえ愛は現在形です、ただ今、時々刻々にのみ現れるのです
  (トルストイ『文読む月日』)

☆ 常に現在の時間にしっかりしがみつきなさい。刻一刻過ぎて行く時間には、無限の価値があるから。私は現在に自己のすべてを賭けています──1枚のトランプに人が大金を賭けるように。私は現在をそっくりそのままで、できるだけ高価なものにしようと努力しています。(ゲーテ)

☆ 人生が楽園なんです。僕らはみんな楽園にいるのです。それを知ろうとしないんだけなんです。知りたいと思いさえすれば、明日にも、世界じゅうに楽園が生まれます。(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

☆ いつかできることはすべて、今日もできる
 (ミシェル・ド・モンテーニュ『瞑想録』)

☆ その日その日が一年中の最善の日なのです。
  (エマーソン)

☆ すべての存在はそこにあるだけで宇宙に受け入れられているのです。そこに最大の価値があります。
  (マザーテレサ)

☆ 真実のない生というものはあり得ない。真実とはたぶん生そのもののことだろう。(カフカ、1883-1924、41歳)

☆ 生きることの目的は生きることそれ自体である。(ゲーテ)

☆ すべてのものごとには終わりがある。したがって、忍耐は成功をかちうる一つの手段である。
 (ゴーリキー)







【愛】
☆ できごとはもう結果がついたように見えるとき、実際やっと始まったばかりのことがよくあるものだ。(ノヴァーリス、1772-1801。永遠の恋人ゾフィーを喪って)

☆ 人間に最大の幸福をもたらす感情を、すべての人が知っています。この感情とは、愛です。(トルストイ)

☆ 人が天から心を授かっているのは、愛するためなのです(ボワロー、1636-1711)

☆ 二十代の恋は幻想、三十代の恋は浮気にすぎません。人は、四十代になって初めてほんとうの恋愛を知ります。(ゲーテ)

☆ 油を足し続けなければ、ランプは灯しておけないでしょう。愛し続けなさい。輝き続けますから。
(マザー・テレサ)

☆ 利害を越えた究極の目的を人と共有する時、初めて心のままに生きることができる。(サン=テグジュペリ)  

☆ 人生には解決なんてない。ただ一歩一歩歩んでいくエネルギーがあるばかりです。そういうエネルギーをつくり出さなくてはなりません。解決はそのあとからついてきます。(サン=テグジュペリ)

☆ 人間が死んだり、金銭を失ったり、家がないとか、財産がないとかいうことが、哀れなのではない。なぜなら、これらすべてのものは、人間にもともと備わっているものではないからだ。人間は、自分の本来の財産、最高の財産、すなわち“愛するという才能”を失った時が、哀れなのである。(トルストイ) 

☆ もっと愛するほかに、戀の治療薬はありません。(D・ソロー『森の生活』)

☆ 生命は、黄金を積むもこれを買うことができない。(ホメロス)

☆ 愛情には一つの法則しかない。
  それは愛する人をしあわせにすること。
      (スタンダール『恋愛論』)

☆ 愛は信頼の行為。信ずるから信ずるのです。理由はない。(ロマン・ロラン) 

☆ 愛することは、信頼することの片半分だ。(ユーゴー) 

☆ 愛は、愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。(エーリヒ・フロム『愛するということ』)

☆ ある一人の人間のそばにいると、他の人間の存在など全く問題でなくなることがある。それが戀。(イワン・ツルゲーネフ)





【幸福の道標】

☆ ぼくたちが広々とのびやかな自然の世界にこれほどいたがるのは、自然がぼくたちに関してなんにも意見をもっていないからなのです。(ニーチェ)

☆ 煙草をやめるなんて、とてもやさしいことだ。私はもう百回以上も禁煙している。(マーク・トウェイン)

☆ あじわう、ということは、どんなささやかなことでも宝石に変えてしまう不思議な体験です。(五木寛之)

☆ 左手は右手ほど巧みではない。だからしばしば右手より役立つのだ。(パウル・クレー) 

☆ ともかく結婚せよ。もし君が良い妻を持てば、幸福になるだろう。もし君が悪い妻を持てば、哲学者になるだろう。いずれにしろ、いいことじゃないか。(ソクラテス)

☆ 読書して考えないのは、食事をして消化しないのと同じである。(エドマンド・バーク。桑島先生研究の美学者)

☆ 竜馬は議論しない。議論などは、よほど重大なときでないかぎりしてはならぬといいきかせている。
もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである。(司馬遼太郎『竜馬がゆく』)

☆ 人の真実は何にて知りぬべき。涙の外あるべからず。(沢庵和尚宗彭) 

☆ あらゆる人間関係に役だつ提案を一つあげてくれと言われたら、私は真っ先に「いい聞き手になること」と答えるだろう。(心理学者リチャード・カールソン)


☆ 人生は、地球上で過ごした年数で測られるのではない。どれだけ楽しんだかで測られるのだ。(D・ソロー)

☆ 一度。二度存在することはない。しかしこの一度存在したということ、たとえ一度でもこの地上に存在したこと。これは打ち消しできない。(リルケ『ドゥイノの悲歌』)

☆ 死は、生きているモノすべてを破壊するが、生きたという事実性を空無にすることはできない……死は、個人の心理的で肉体的な構成体を塵垢と化すが、生きられた生の事実は、その残骸のなかにも生き延びて存続する。(ジャンケレヴィッチ『死』458頁)





【感応道交】

☆ 天理に叶う時、富貴来る。(二宮尊徳)

☆ 冬があり夏があり、昼と夜があり、晴れた日と雨の日があって、ひとつの花が咲くように、悲しみも苦しみもあって、私が私になってゆく。(星野富弘)

☆ 朝は神聖な時。朝は汚れなき時間。他の時間には眠っている我々の内部の“気高い魂”を目ざめさせる時。インドの聖典にいわく「すべての知恵は朝とともに目ざめる」。中国古代王いわく「日に新たにして、日に日に新たなり」
朝! 天体の奏でる音楽の波、大気をみたす香り。(D・ソロー『森の生活』)

☆ そなたは声高に〈生きなさい〉と言い、聲を低めて〈死になさい〉と囁き、そして繰り返し、〈在れ〉と言われた。(リルケ『時禱詩集』)

☆ 智慧をも愚痴をも捨、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理もすて、地獄をおそるゝ心をもすて、極楽を願う心もすて、又諸宗の悟もすて、一切の事をすて」(一遍『播磨語録』消息文)

☆ 現実の存在に背を向けて生きることが、あらゆる瞬間に、現実の存在とのもっとも美しいもっとも確実な調和となって洗われてくる。(キルケゴール『おそれとおののき』ヒルシュ版100頁)

☆ 愛撫されているものは、実は触れられていない。愛撫が求めているのは、触れることによってあたえられる手の柔らかさやぬくもりではない……、愛撫は逃げ去るなにかとのいわば戯れ、企図も計画もまったくできない戯れである。つまりわたしたちのものになりえたり、わたしたち自身になりえたりするものではなく、それとはまったく別のなにか──つねに他であり、つねに近づきがたく、つねに来たるべきなにか──とのたわむれである。(レヴィナス『倫理と無限』78頁)

☆ 真実がその薄衣を剥がれてもなお、真実としてとどまると言うことを、もはやぼくたちは信じない……、なにもかもを裸にしてみようなどとはしないこと、あらゆるものの間近に居ようとはしないこと、すべてを理解し認識しようなどとはしないこと。哲学者への警告! 自然(無縁)が、謎やさまざまな不確定性の背後に身を隠すその恥じらいを、もっと尊重すべきである。(ニーチェ『悦ばしき智慧』クレーナー版10頁)

☆ 夜も昼も私の血管を流れる同じ生命の流れが、この世界を流れて、リズミカルな韻律で舞踏している。
それは地上の塵をぬけて歓声をあげながら数知れぬ草の葉に迸り、葉と花のざわめく波となって砕ける、あの同じ生命。
生と死、引き潮と満ち潮の大海の揺籃に揺られているのと同じ生命である。
私は私の四股がこの生命の世界にふれることで輝かしくされるのを感じる。
そうして私の誇りは数々の時代の生命の脈拍が、この瞬間に私の血の中に舞踏していることである。
(タゴール『ギタンジャリ』「夜も昼も私の血管を流れる)

☆ 私は静けさの中にあって響いてくるものを待っていなければなりません。そして強くひびかせようとすれば、いよいよもってうまくいかないことを知っています。時としてその響きはあらわれます。すると私は深みの主人となり、その深みは光を放ちながら、美しく闇のなかにきらめきながら開くのです。
 といって呪文を唱えたわけではありません。時がくれば神様がそれをやって下さるのです。私の為すべきことはただ、辛抱強くしていること、待つこと、私の深みに敬虔に耐えることだけです。私の深みはいったん閉ざされたとなると、何日でも何日でも、まるで重い石みたいなものです。しかしそこへ生活の問題が入ってきて、なんとかして私と私の石を利用しようとします。そこで私はいつも手も足も出なくなり、不安になるのです。そしてその深みのことなど考えずに、石のままで使いたくなることがよくあります。というのは悪い日は死んだ言葉しか出てきませんし、それは死体のように重く、そうした言葉では何も書けません。手紙一本さえ書けないのです。(リルケ『リルケの手紙』1903年2月13日、エレン・ケイ宛手紙)

☆ ぼくらはひとに褒められたり貶(けな)されたりして、びくびくしながら生きている。自分がひとにどう見られるかいつも気にしている。しかしね 。そういう自分というのは 本当の自分じゃあなくて、社会にかかわっている自分なんだ。もうひとつ、天と地のむこうの道(Dao)につながる自分がある。(『老子』一三章)