第四展示室

 月 ☆ 日





【月壺】


朴英淑(パク・ヨンスク):白磁「月壺」(満月壺)

「窯の中で焔に焼かれた二つの半球が
一つの完全な形になった『月の壺』は、
他人同士だった二人が出逢い、
互いを理解して受け容れる人間の生き方」
(朴英淑)

ギリシア風にいえば、アンドロギュヌスや
エンテレケイア(円現態)を連想する。
ギリシアの月といえばアルテミス。



【アポロンとアルテミス】

地中海の空の上では、月と太陽はまるで戀人同士、いやそれ以上。かの『双子の星』を書いた宮澤賢治とその妹としのように、アルテミスとアポロンの二人は生臭い縁的関係性を越え(天地自然の無縁世界に住む神々だから当然)、文字通り天地に浮遊し駆けめぐり、いつも慕いあい追いかけあう比翼連理の仲だった。
昼の世界をつかさどる太陽が、しずかに夜の女神の月へその「光明神」としての職務をひきつぐように、あるいは太陽神の兄を追って夕暮れ時に現れる月姫でもあるように、二人は、切っても切れないじつに見事な連携プレーを日夜おこなう睦まじいカップルとして、崇められ、礼拝されてきた。


















【ブーシュ作:「日出」と「落日」。上画ではアルテミスが天地自然の夜の護りを終え、その任をアポロンへ引き継いでいくし、下画ではアポロンが疲労困憊しながら天地自然の護りをアルテミスへ引き渡していく。右上方に月。ピッタリ愛おしいほどイキのあった、むつまじい相思相愛の連携プレー】


太陽神アポロンは、日輪の光を投射し大地を照らし生命を育てる。竪琴の名手でもあり音楽育成にも精を出した。月姫アルテミスは、月光を放って大地を照らし生命を育くむ。宝飾が好きで宝石文化の育成に努めた(ちなみにアルテミスの守護宝飾は真珠。古来、月の雫と云われる由縁である)
金と銀の光を投射するそのありさまから二人は、金の弓と銀の弓の名手ともされた。どんなに遠くでも、また分け隔てをすることなくどんなものにも、その弓矢(ひかり)を射ることも、だからできたという次第。

しかも太陽と月が永劫に入れ替わり立ち替わって天空を飾るように、二人は永劫につねに天地自然の詩を歌い続けてあきることがない。百二〇年間はおろか、五万年でも五億年でも、夕刻六時になっても七時をすぎても切りなく、愛し合い、惹き合い、添い遂げ、語り合う。しかも永遠の懸隔の定めの中で。だからこそ、太陽と月とは、ギリシア神話の神々のなかでも超人気者の二人となった。ナポリ郊外の遺跡に、その証左をもとめよう。





【アルテミスの泪】

《哲学者が、禁欲的な徳をわがものとしようとするのは、禁欲とはほど遠い目的に、それを役立てるためである・・・そう、完全な歓喜のために。至福を獲得するために》

これは、ドゥルーズがスピノザを評した言葉だが、プラトン先生にもあてはまる。その主著『饗宴』と『パイドン』。エロス昇華(恋愛道)と、プシューケー浄化(死の修練)を説いたこの二つの名著もまた、つまるところ、至福の歓びへ至る道を説いているからだ。

それにしてもなぜ恋愛なのか、プシューケー浄化の道なのか。プラトン先生の真摯な高説は、プラトンの著書で直接堪能していただくとして、ここで取りあげたいのは、アルテミスとアポロンの悲恋物語である。

      *    *     *

「時よ止まれ」。
至高の愛を成就した恋人たちが、最後に願うのはそのことだろう。奇跡的な出逢いの果てに、身も心も一つに溶け合い、愉悦の頂点へ至った二人である。無常に流れ去る時の停止を、つまりは永遠の愛をいやでも願ってしまう。恋は不死を求める道。そう女神ディオティマも教えるとおりである(『饗宴』207-208)

まさにその言葉どおりの恋人達がいる。二千年前で時を止めたまま、至高の愛のかたちを今に伝える恋人達。ポンペイ遺跡のアルテミス(月神)とアポロン(太陽神)である。双子の兄妹だが、いわずと知れた相思相愛の仲。この秋、南イタリアの旅すがら、その現場を目撃し衝撃をうけた。

よく知られているように、ポンペイ遺跡の中心に二人のための神殿がある。壮麗な祭壇の背後には、ご神体ヴェスビオ山の秀麗な山容が迫る。



その祭壇を正面に左壁側にアルテミス像、右壁側にアポロン像が置かれている。置かれていることもその姿形も写真で知っていたが、ショックだったのは二人の懸隔である。五〇mほど距離をおいて直視し向き合う両人の、その表情とポーズ。



峻厳な面持ちで、今にも飛び出しそうな勢いで、たがいに手を差しのべ、指先を宙に泳がせいたわり求めあいながら、離れあう。じつに哀切な立ち姿なのである。この五〇mの隔たり。わずかとはいえ永遠に縮まることのないこの厳しい懸隔。アルテミスの右目には白い宝飾象嵌が泪のように滲む。抱擁も合体も拒むこの哀切な泪の懸隔に、少しこだわってみよう。

      *    *     *

恋は落ちるもの。意図してできるものではない。二元的に在る者がある日突然、どうしようもない力によって惹かれ合い、一つになりたいと求め合う。相手へ向かわずにおれない、この原受動的な合一願望がエロースであるが、問題は、「合一」がどういうことであり、合一したい「相手」とはそもそも何のことなのかということだ。

手と手がそっと触れあう。たったそれだけで身も心も舞い上がるのが恋である。ましてや唇に唇をそっと重ねた日には、その余韻だけで生活は一変。あたり一面にひかり溢れ、世界中のなにもかもをゆるしたくなるほどの寛大な心もちに包まれる。人を恋するとはそういうことであろう。

だとしたら、恋愛の合一交歓はすでに最初から、とてもメンタルな出来事ということになる。恋の愉悦を、だから単純に肉欲や肉体結合に還元できるわけがない。そんなことで熄まない恋情だからこそ、恋はつらく、むつかしい。性愛充足の一夜は実現もしよう。それはそれで甘美な陶酔。天にも昇る心地だ。だが肉の哀しみ。あれだけ恋い焦がれた「あなた」と合一状態に至った感じがしない。かえって「あなた」を見失ったような焦燥感や孤独感が、残存してしまう。どなたもそれこそ身に覚えがあるはずだ。

それはじつは最初から分かってはいたことだ。向かわずにはおれず求めていたのは、愛するその人自身(その人の正体・存在・真実在。つまりウーシア)であって、性欲発散場所や肉のかたまりではなかったからだ。激しい抱擁を重ねても、肝心の愛するその人自身のウーシア(存在)は、愛撫する柔肌の向こうへ、まるでニンフのように逃げ去ってしまう。恋の成就に至れぬそのもどかしさ、どんなに接近をはかっても逃げ去るばかりの他者存在の「絶対的他性」の機微を、レヴィナスはこう語っている(Ethique et infini.P.78)。

「愛撫されているものは、じつは触れられていない。愛撫が求めているのは、触れることによって与えられる手の柔らかさやぬくもりではない。愛撫は逃げ去るなにかとの戯れ、企図も計画もまったくできぬ戯れである。つまり私たちのものになりえたり、私たち自身になりえたりするモノではなく、それとは別のなにか──常に他であり、常に近づきがたく、常に来るべきなにかとの戯れである。」

肉体への愛ならその所有をもって熄む。だが恋愛(エロース)は肉体の征服や所有をもって熄む獣的欲情(エピトゥミア)でないから苦しい。そんなものなら金銭でも買える。暴力でも果たせる。そんなものをぼくたちは恋愛といわない。求めていたのは、真っ白な柔肌や微笑みの〈中〉で輝いている「あなた自身」なのだから。

「すべて見えるものは、見えないものに触っている。聞こえるものは、聞こえないものに触れている。おそらく、考えられるものは、考えられないものに触っているだろう。」

そうノヴァーリスもいうとおり、肉欲的情動という表向きのすがたをとりながら、ぼくたちが求めていたのはそうした「モノの彼方」に息吹くなにかのはずだ。つまりプラトンいうところのイデアの次元に、愛しい人のウーシア(実在・正体・リアリティ)は生起する。

それを、プラトン先生にならってぼくもプシューケーと呼んでみようと想う。ただし古代ギリシア当時の普通の意味で「生命の息吹」と解して。その相手の存在の輝き、生命の息吹をこそ、私は最初から求め、それとの合一交歓を希求していたはずだ。

だとするとどうなるのか。生命の息吹(プシューケー)と生命の息吹(プシューケー)とが響きあって一つに溶けあうには、どうしたらいいのか。

      *    *     *

一般になにかのリアリティ(ウーシア=真実在・存在・正体)は、そのなにかが不在化(喪失・離別・破損など)するとき、はじめて痛感されてくるものだ。
たとえば転居。住みなれ熟知していたはずの町並みや知人が、思いもしなかったほど新鮮な相貌をたたえながら、その真実在(ウーシア)を突きつけてくる。病気が健康なときの生を、旅する異郷が故郷の存在を、祭りの後の空白が祭りのさ中の賑わいを、かえって炙りだす逆説として、周知の「不在ゆえの現前」の事実である。

だとすれば、この不在ゆえの現前のロジックを逆用すればいい。つまりあえて隠す、離れる。たとえば、あたかも最期の日(クワシ・ウルチマ)でもあるかのようにして──プラトン先生ならメレテ・タナト(死の修練)なんて言うかもしれない──、愛しい人を見つめてみる。あるいは愛しい人が死の世界へ旅立つそのラストシーンを想い合わせながら、接してみる。

するとどうだろう。漆黒の闇夜の中からたまたま生まれ、奇しくも今ここで出逢い、想い通わせ感応道交している二人の存在の希有さや貴重さの想いが、自然に湧き出てこないだろうか。この世に生まれ存在していてくれたこと、そしてこの私と奇しくも出逢って今ここで、場を時を朋にしてくれていることを、なにより在り難く想う。そんな存在驚愕(タウマゼイン)に発す感謝の念が静かに溢れてくるはずだ。

欠如や離隔を嘆き合体ばかりを焦るエロスはこうして、たがいの存在を言祝ぎ、朋に在ることを悦ぶフィリア(信愛)に変貌をとげる。そんな二人の愛のかたちこそ、至極の恋の成就ではないか。

だとすれば、アルテミスとアポロンとの五〇mの懸隔は不幸ではない。すでに二千年もの間、二人は真っ青な空の下、ヴェスビオ火山の秀麗な輝きをうけながら、朋に在り見つめあって過ごしてきた。おそらくこれからも半永久的に朋に在るだろう。それはフィリアにまで高まったエロースの最終形。
「二十歳代の恋は幻想。三十歳代の恋は浮気。
人は四十歳代になってはじめて、本当の恋愛を知る」
とゲーテはいうが、本当の恋とはそういうことではないか。

それにとても「粋」だ。抱擁も合体も拒まれたこの懸隔。九鬼周造なら、この懸隔を堪え忍ぶ意気地と、懸隔を諦め受容する恬淡さとがあいまっての媚態(牽かれ合う二元的情態)こそ粋であり、人間くさいこの世的な情愛関係を越えた至高の愛のかたちだと、絶賛するはずだ(『〈いき〉の構造』)

たしかに二人の間には、胸張り裂けるほど哀切な懸隔があったが、しかしその空隙はまったく虚ろではない。どんな形ある紐帯より強固な張りのようなものを漲らせていた。

 
だがそのうえで、むしろだからこそ、二千年前の噴火でフリーズした二人の時間停止を解除してあげたくも想った──プラトン先生は反対するかな──。
まちがいなく二人は、猛然と駈け寄り、しかと抱き合い、火花散らすほどの法悦のなかで一つに溶け合うことだろう。何時間も何日も何ヶ月も激しい愛の交歓は続くはずだ。そしてやがて静かに微笑みを浮かべながら、みどりなす大地をゆったり歩みはじめるにちがいない。手と手をしっかり取り合って。アルテミスの白き泪は、愉悦の泪に変貌もしているはずだ。そんな二人の姿──ワンクッションおいた現代版プラトニック・ラブ──を夢想しながら、廃墟の古代都市を後にした。


   (『西洋古典叢書(パイドン巻)』月報、京都大学出版会)

☆゜∴.☆゜∴.☆゜∴.☆゜∴.☆゜∴.☆゜∴.☆゜∴.☆でも月戀し



 

【イカル/月星日】














  いかる来て 起きよ佳き日ぞと鳴きにける
          (水原秋櫻子)

大和は斑鳩の里に多く住むというイカル。朝まだき天に響き渡るその澄んだ鳴き声を古来ひとびとは、「ツキ・ホシ・ヒ」(月・星・日)とも、「月欲しい」とも聴いたそうです。月と星と日とが聞こえるその意味で、「三光鳥」ともいうのですが、50mの懸隔を越えて、清冽ないのちの呼びかけが、文字どおり天地いっぱいにあふれます。


ゴッホ:星月夜(Vincent van Gogh:The Starry Night )

ゴッホ:星降る夜


月あかり